Mama Afrika

アフリカ系米国人のアフリカ回帰

ケネディー暗殺のニュース、ワシントン大行進のニュースをリアルタイムで見聞きした世代です。

そして、マルコムX、キング牧師の暗殺も…

アフリカに関する二つ目の記憶

中学の頃。それはアメリカで公民権運動が高まりを見せた頃であった。

アフリカン・アメリカンが、自分たちの存在証明として、父祖の道をたどるべく、また、自分たちのルーツの偉大さ、すばらしさを再認識すべく、いろいろなことに取り組む活動の一つとして、アフリカの言語の学習がブームとなっている、と読んだ。
特に、西のハウサ語、東のスワヒリ語が二大人気だという。

スカーレット・オハラの世話をする黒人のマミィ。
明るく健康的なホーム・ドラマのアメリカ。
差別問題、黒人問題に関して自分なりに何かを考え始めていた年頃であったため、この雑誌の小さな囲み記事が印象深く残った。

これが二つ目のアフリカに関する記憶である。

初めて目にする、聞いたこともない言語の名称。ハウサ語とスワヒリ語。
まさかその後20年ほどして、自分がそのスワヒリ語を勉強するようになるなどとは、思っても見なかった。

あれほど印象強かったはずのこの言語の名称も、いつの間にか記憶の隅の方へ行ってしまい、思い出すこともないまま年は移って;

子供の頃から強度の乗り物酔いがあったため、ほとんど旅行などしたことがなかったのだが、念願中の念願、モニュメント・バリーをバスで走ることが出来るツアーを見つけ、カナダ・アメリカ三週間のツアーに参加、そこで見たものは、黒人のマミィではなかったが、明るいホーム・ドラマでもなかった。
公民権運動の頃とたいして変わっていなさそうなアメリカの臭いが印象的ではあった・・・。

それでもこの旅で旅行開眼。
世界のすべての大陸を踏みたい、七つの海を見たいと願うようになった。
そして、第二回目の海外旅行にケニヤを選んだのは、人生の必然であったのか?

このとき例えば南アメリカに、いやエジプトにでも行っていれば、私の人生は大きく変わっていたことだろう。


1979年秋

ケニャ旅行の準備のためにいろいろ調べていたとき、スワヒリ語が話されていると知った。
あぁ、あのとき読んだあの言葉がケニャで話されているのかぁ。

そして、ガイド・ブックを買いに行ったとき、たまたま目にはいった一冊の本。
スワヒリ語の入門書を思わず手に取った。

あの頃、どんな言語かも分からず、それでも名前だけはしっかり覚えていたスワヒリ語。
そのスワヒリ語と出会えたのは1979年秋でした